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予想していたとおり、典型的なプロレスファンブログ現象が発生。
●カクトウログ 「田村潔司「ヌルヌルでも構わん」秋山成勲戦で最後の大勝負へ」
タイトルは田村のコメントになっているが、引用文を見れば執筆者自身がこの件を歓迎していることは明白。
> そのために、秋山成勲戦は他の誰にも譲れない。 > リングス時代、オイル塗布の外国人ファイターとも闘ってきた田村のことだ。 > 極端に言えば、「ヌルヌル状態の秋山」に勝つことこそが、桜庭の仇討ちともなるし、桜庭超えともなる。
そもそもカクトウログは『格闘家としてあるまじき不正行為を行った秋山を許すな』という主張を展開していた。ならば、秋山戦を利用しようとしている田村に対しても批判的にとらえるのが筋である。
余談であるが、ある時期以降の田村は、自分の知名度や存在価値を、他ブランドを利用して補う傾向が見える。一時期のUWFや、今回のHERO'S参戦におけるPRIDEという名称の使い方がそれだが、秋山への絡みも田村なりの営業効果を考えての行動だろう。それを全面的に否定はしないが、あまりやり過ぎるとハナにつくのも事実。
本論に戻る。
ファンとして、秋山の件が許せないのであれば、それを使おうとする主催者、それと戦おうとする選手をも批判しなければならない。格闘技ファンを辞めるのも、会場で野次やブーイングで感情表現をするのも、文章を公開するのも批判のあり方である。共通して言えるのは、批判を具体的な行動とする場合は、何らかの代償が発生する、もしくは発生するリスクを負わねばならないということだ。ファンを辞める場合は、趣味を一つ失う。全く制御することなく会場で感情表現をした場合、退場させられる可能性がある。そして文章を公開する場合は、いわゆる“文責”を負わねばならない。 “文責”を負う、とは自分が過去に書いた文章に対して責任を果たすということだ。文章として公表した以上、考え方や主張が変節する場合は、その経緯と根拠を示さなければならない。
一連の秋山事件の流れの中で筆者が辟易とさせられたのは、プロレス・格闘技関連ブログ執筆者の“文責”に対する自覚の無さである。秋山側、HERO'S側の発表コメントには罵詈雑言を浴びせる一方、別の立場の人間が同じ内容を言った場合は、一転して諸手を上げて歓迎する。今回の田村の発言内容は、本質的にHERO'S側の発表と全く同じものであるにも関わらず、その受け止め方の変貌ぶりはどうだろう。
再引用となるが、同じカクトウログの、10日前後で発表された以下のエントリーを見比べると、その変節ぶりに愕然とさせられる。
「柴田勝頼、グレイシー狩りへ出陣! 秋山成勲は早ければ9月に復帰へ」(2007.07.02)
> そして、秋山成勲についての主催者側の見解が発表された。 > 何を言われようと、秋山の復帰は「スポーツとしては」許されない。 > あの一戦。滑ってふだん掴めるものが掴めないのだから、桜庭が命にかかわるような想定外の負傷を背負うことだってあり得たのだから。
「田村潔司「ヌルヌルでも構わん」秋山成勲戦で最後の大勝負へ」(2007.07.13)
> そのために、秋山成勲戦は他の誰にも譲れない。 > リングス時代、オイル塗布の外国人ファイターとも闘ってきた田村のことだ。 > 極端に言えば、「ヌルヌル状態の秋山」に勝つことこそが、桜庭の仇討ちともなるし、桜庭超えともなる。
> SADAMEを逃すな。頂を目指し続けろ。KAMIKAZEを吹かせろ。
田村が良いと言えば“命にかかわるような想定外の負傷を背負うことだってある得るヌルヌル”は許されるのか?その試合を許容するのが正しいファンのあり方なのか?SADAMEとは何か??頂とは?KAMIKAZEとは?
口舌の刃で人を斬っておきながら、都合よく純真無垢な存在に戻ってしまうプロレスファンは、ある意味でペンゴロやペンチンピラ(10年以上前に前田日明が定義した取材をしないで記事を書くプロレスマスコミの呼称)よりも悪質である。
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